お知らせ

【校長ブログ】芸術の秋。さいたま市立高校文化交流発表会(2019年09月16日)

 9月15日(日)から22日(日)までの1週間、浦和美術館(さいたま市浦和区・浦和センチェリーシティ3F)で「第12回さいたま市立高校文化交流発表会」(9月17日は休館)が開催されています。浦和南高校からは、陶芸部、書道部、写真部が参加しています。浦和南高校のほか、市立浦和高校(美術部、書道部、写真部)、大宮北高校(美術部、写真部、漫画研究部)と合同の発表会です。

 部活動というと中学校も高校も運動部の活躍が注目されがちですが、高校における文化部の活動は本格的です。浦和南高校では、18の文化部が活動しています。浦和南高校の部活動は運動部中心のイメージが強いですが、実は、文化部については市立浦和高校(14部)、大宮北高校(10部)に比べて18部と多種多様な文化部があります。

 私は、文化部活動の充実は、高校教育において大切だと思っています。部活動は、新高等学校学習指導要領(令和4(2022)年度から学年進行で実施)においても、「学校教育の一環として」行われるものであり、「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動については、スポーツや文化及び科学等に親しませ、学習意欲の向上や責任感、連帯感の涵養等、学校教育が目指す資質・能力の育成に資するもの」と明記されています。学年を越えた交流の中で、生徒同士や生徒と教員等との好ましい人間関係を築いたり、生徒自身が活動を通して自己肯定感を高めたりするなど、その教育的意義はとても評価されています。

 私も文化交流発表会を見学しましたが、3校の文化部のレベルの高さに感動しました。浦和南高校の陶芸部の洗練された作品、書道部の圧倒されるほどの大作や充実した書、写真部の多彩な作品にうれしくなりました。芸術の秋です。ぜひとも、さいたま市立高校文化交流発表会で高校生の文化部活動の一端をご覧ください。

ポスターはこちら→ 文化交流発表会ポスター

9月9日・10日振替休日のお知らせ(2019年09月08日)

浦和南高校は、9月9日(月)、10日(火)は文化祭の振替休日のため休業日です。

【校長ブログ】伝説の「赤き血のイレブン」松本暁司先生を偲ぶ(2019年09月04日)

 浦和南高校で高校サッカー史上初の高校総体、国体、全国高校選手権大会三冠を成し遂げられた 松本 暁司 先生がご逝去されました。浦和南高校創立の昭和38(1963)年4月から平成7(1995)年3月まで浦和南高校に32年間ご勤務され、着任1年目からサッカー部監督として活躍され、昭和42(1967)年に埼玉国体で優勝、昭和44(1969)年には高校サッカー史上初の三冠を成し遂げられ、昭和50(1975)年、51(1976)年には全国高校選手権大会連覇を達成されました。

 埼玉県体育協会(現在の埼玉県スポーツ協会)では、国際・国内競技会において、特に傑出した競技成績、成果を収めたチーム・団体に「栄光旗」が授与していますが、浦和南高校サッカー部は、昭和44(1969)年、昭和50(1970)年、昭和51(1971)年と3本「栄光旗」をいただいています。埼玉県内で同一団体が3本の「栄光旗」をいただいている団体は他にはありません。

 特に、昭和44(1969)年の浦和南高校の三冠達成は今でも語り草になっています。高校総体埼玉大会決勝で、浦和市立高校(現在のさいたま市立浦和高校)を7−1で勝利した 松本 暁司 監督の率いるイレブンは、高校総体、国体、全国高校選手権大会の3全国大会において「抽選勝」のない全勝の完全制覇でした。圧倒的な強さで前人未到の偉業を果たし、県立浦和高校、県立浦和西高校、浦和市立高校(現在のさいたま市立浦和高校)につづく盟主誕生を強く印象づけました。

 浦和南高校の校長室では、全国高校選手権大会優勝のサッカーボールブロンズ、3本の「栄光旗」、そして 松本 暁司 先生をモデルにした梶原一騎原作「赤き血のイレブン」を展示して敬意を表しています。奇しくも 松本 暁司 先生の告別式当日、告別式会場に隣接する浦和駒場運動公園では高校サッカーさいたま市民大会南部支部大会が開催され、浦和南高校サッカー部も出場します。当日は、サッカー部員は腕に喪章をつけ全力でプレーをします。松本 暁司 先生の御冥福をお祈りいたします。

 

松本 暁司「浦和南高校サッカー20年」

 昭和38(1963)年4月、在職2年目の埼玉大学附属中学校を、あえて苦労を覚悟で転出することに踏み切った動機は、当時の浦和市教育長須藤多市先生が、サッカーの猛烈なファンであって、その誘いを受けたことが最大の原因であった。

 その折、須藤先生が言った印象的言葉が二つあった。一つは、浦和南高校のサッカー部を早く日本一にすること。もう一つは、学校の中で一人でよいから恐い教師になれと言われた。浦和市立常盤中学校(当時)体育館を6つに仕切った仮教室から授業が始まり、グランドも常盤中学校と、埼玉大学針ヶ谷グランドを借用しながらだった。現在の校地へ移転した1年後でも、南棟だけで、グランドはまだなかった。

 開校当時の5年間くらいは、涙ぐましい辛い苦しいことが山ほどあったが、その間、昭和42(1967)年の埼玉国体の高校の部における優勝と、南高がサッカー会場になったことで、一応学校らしくなったと思う。

 新設校としてスタート以来、情熱的な諸先生方の指導と協力体制で、その後は1年ごとに充実し、今日、先輩校に互して譲らぬ確固たる地を築き、優秀な人材を掘り起こし、鍛えてきた。それは、浦和南を志望する小・中学校生、保護者、中学校の先生方、浦和市民にも信頼を得た。昭和51(1976)年の全国優勝の浦和駅頭での大歓迎は、サッカーのまち浦和とはいえ、地域社会と高校スポーツが、いかに密着しているかを示した現象だ。

 続々と選手たちは浦和南の門をくぐっては、それぞれ次の扉をたたき、翔び立っていった。トップレベルの人材は、即戦力となり、大学、社会人チーム、そして国際舞台で活躍している。スポーツの世界にも、素晴らしい組織があり、人間関係の繋がりがひろがっている。

 私は、この20年間で高校スポーツは、世界を知る登龍門であることを知った。それを自分自身で予想だにしなかったN選手が、サッカーの世界の貯えられた伝統ある文化に触れ、初めてサッカーの道の尊さと感動を体験し、益々前向きに挑戦しようとする決意に、胸を熱くしているのである。

 サッカーは、一人では成立しない。他のメンバーの協力によって、はじめて自分の能力が最大限に発揮される。したがって、自分も他の選手に協力する奉仕者でなければならない。互いに持っている力を発揮して、ゲームとして勝つという喜びが得られる。勝利感は、人間の本能的欲求だ。しかし、そこには人間がプレーするスポーツとして、崇高なモラルの上にのっとったルールがあり、フェアプレーが基盤であることが、真の勝利者であろう。南高サッカー部の栄光には、この輝かしい勝利の感動があったことを忘れることはできない。

 最近の南高サッカー部は弱くなったと言う。その理由は、「鬼マツ」が優しくなったからとよく聞く。須藤先生の恐い先生になるイメージをもう一度再現しなくてはならない。私自身は変わらないつもりだが、指導法に何か工夫と進歩を見出し、勝利への不安を吹き飛ばす、精神力を叩き込むことに頭がいっぱいである。

 そして今ここに、南高の学び舎で育った選手の中から20年目にして、初めて南高教諭として、今春筑波大卒のサッカー部選手だった野崎正治君を迎えることができた。このことは言うまでもないが、現在も将来も、南高生にとって大変意義あることであり、他教科にも是非南高生OBが迎えられるように希望している。

(『埼玉県浦和市立南高等学校20周年記念誌』1982年)

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